公益財団法人 世界宗教者平和会議日本委員会

Heartful Message

こころの扉

願いと祈り

立正佼成会理事長・WCRP日本委員会理事 熊野隆規

昨年12月より、立正佼成会の理事長を仰せつかりました熊野隆規と申します。宗教界、また各界の皆様からのご指導を受け賜りますようお願いを申し上げます。

昨年末、また年始よりご挨拶のため、先生方のもとにお邪魔を致しました。2月の初旬には、伊勢の神宮を参拝させて頂くことがございました。ありがたくも齊藤少宮司さまにお迎えを頂き、これまで数々の役職にお就きになってこられたご経験や、神宮の歴史にまつわるお話、また、この「こころの扉」にも寄稿なさったことなども伺いました。

ご面談頂いた後、広報室次長の音羽様のご案内で、御垣内参拝や境内のご説明に預かりました。その時、気づいたことがありました。神宮の境内には、案内の看板や解説文、キャプションのようなものがほぼ必要最低限だったということです。神宮特有の雰囲気と言いますか、余計な説明を施さない独特で凛としたスタイルを感じました。キャプションがない分、音羽様の解説に一層、熱と力が入りました。しかし、その解説も諸説ある中の一つというお話で、無限に広がる神話の世界を垣間見ることができました。

また、内宮正殿では、個人的なお願い事は「なし」だそうですので、常に国民の幸せと安寧を支え続けてくださっていることへの、感謝と御礼の参拝をさせて頂きました。

以前、弊会の機関誌でご執筆頂いたことがある随筆家の若松英輔先生の言によりますと、

あるときまで、「祈る」ことと「願う」こととをほとんど区別していなかった。できなかった、といったほうがよいのかもしれない。さらにいえば、「祈り」の時間を「願い」で埋め尽くしてきたようにさえ思われる。
願うとき私たちは、人間を超えた存在にむかって、どうにかして自分の思いを届けようとする。―中略― 願うとき人は、神仏の「声」にも気が付きにくい。ひたすら自分と話しているからである。祈るとは、願いを鎮め、彼方からの声に耳をかたむけること、無音の言葉を聞くことではないだろうか。

若松英輔『ひとりだと感じたときあなたは探していた言葉に出会う』

私も祈ることと願うことが混在して、神仏を惑わせてきたように思います。そして、残念ながら仏教は案外、お相手に伝えようと、やりとりが言葉でいっぱいになりますが、神道の世界は静寂と無言。敢えて語り過ぎないところが、深淵なる祭りの世界と拝しました。WCRPを通じて、さまざまな宗教の持ち味を存分に味わわせて頂けることが、なによりの功徳であります。

合 掌

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