公益財団法人 世界宗教者平和会議日本委員会

Heartful Message

こころの扉

信仰と教えの体現

拓殖大学イスラーム研究所所長・WCRP日本委員会平和研究所所員 森 伸生

私が東京モスクでイスラームに入信したのは1973年夏であった。大学4年生のころである。イマームはトルコ人のアイナン・サファー老師であった。入信の儀式を終えて、おもむろに同老師はおだやかな口調でイスラーム信徒になったことを祝福して、さいごに「イスラーム信徒になったならば悩みはなくなりますよ」と教えてくださった。当時の私にはその意味するところが分からないままに、時が過ぎ去り、マッカの大学で学ぶことになった。

マッカでの学究生活は毎日、イスラームの啓典・クルアーンと預言者ムハンマドの言行録・ハディースの講義づけであった。マッカのイスラーム仲間は私がイスラームを理解するのを辛抱強く待ってくれた。そのうちに、少しずつ神にすべてを委ねるとはどのようなことかが分かりかけてきた。そんな中で、同老師の言葉がふと甦ってくることがあった。未だ悩みは尽きぬが、その真意が分かりかけてきた。ハディースに「信仰には七〇以上、もしくは、六〇以上の部分がある。その最善なるものは、アッラーの外に神はないと証言することであり、最も小なるものとは道路から邪魔になるものを片付ける行為である。羞恥も信仰の一部である」とある。信仰のすべての部分が完成したときに、悩みはなくなるのであろうと分かった。その逆に信仰に欠けている一つ一つが悩みとして心に残ってくるのであろう。信仰の構成部分とは何なのか、明らかにされていないが、日々の生活の中で見つけていくことになる。そこで、預言者は最も簡単な行為を示されており、それに倣って信仰の完成に努めるように促していると思われる。

イスラームとは別に、仏教の言葉に目を向けると、そこには常日頃、耳にする、一〇八の煩悩という言葉がある。その教えの中では、人の生きていく中で多くの悩みへの対処の仕方を教えているのであろうと知ることが出来る。言うなれば、イスラームの信仰の色々な部分を別の表現として諭した信仰の体現方法であろうかと思えた。どの宗教でも信仰を裏付けとして人格形成の在り方を示していることが分かる。それぞれの教えで生きてきた人びとのなかで、その教えが体現されるならば、誰もがより幸せな生活を送ることが出来るであろう。しかし、時には立場によっては、信仰に欠けた部分で他者に大きな被害を与えてしまうこともある。世界各地の武力衝突報道に接するたびに、その欠けた部分に互いに気づくことを祈ってやまない。

(WCRP会報2022年6月号より)

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